INTP型のブログ

苦味があるな?

Tiという機能について考えたこと

さっき「病んだ」って記事書いたんですけど、最後知らず知らずのうちに「小説家になって先生って呼ばれたい人生だった……」とかほざいてて、これってTi的だなぁと思ったわけですわ。

 

まずTっていう要素は合理的思考なんて言われますけど、要は実利的であるかどうかという目線で考える機能なんですね。

 

例えば死にかけの猫が目の前に転がってた場合、「助けたら心が満たされるかもしれない」とか「助けたら飯代がかかる」とか「助けて癒やしていく過程を動画にしてYoutubeにアップしたら金(権力)獲得につながるかも」とか、メリットベースなんですよ。(Fならもう少し直接的で可愛そうだからとかになる)

 

ここでもう少し分解してTeの場合を見ていくと、猫を助ける行為が社会的にどういう位置づけにあるのかから実利的かどうか判断するわけです。「猫はみんな好きだから助けることが利益につながる」と考えるかもしれませんし、「死にかけの猫を放置したところを誰かに見られたら自分の権威性を貶めてしまう」とか考えるかもしれません。まあ傾向なので、普通に可愛そうだから助ける可能性もありますが。

 

でTiの場合どう考えるかというと自分ベースなんですよ。「助けたら心が癒やされる」とか、もう少し範囲を広げると「家に猫がいることで人間関係が円滑になるかもしれない」とか。

 

要はTeはマクロ(社会)からミクロ(自分、もしくは自分の周り)という順番で思考が移っていくのに対して、Tiはミクロ(自分、もしくは自分の周り)からマクロ(社会)へ思考が移っていくということ。Teは比較的社会全体での利益を見て意思決定し、Tiは個人主体での利益を見て意思決定をするわけです。

 

もう少し掘り下げると、問題に対して考え始められるポイントの中で一番自分に近いところから考えるか(Ti)、一番社会的に近いところから考えるか(Te)って感じです。

 

(例えば男女問題なら自分の体験ベースで考えたらTiですし、認知できる中で一番大きな枠組みから考え始めたらTeチックですね。)

 

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ここまでの話で読み取ってほしいのはTiは個人利益を枠組みに収めつつ思考していくので、割と自己中って話なんですよね。

 

自分ベースで思考を展開させていくせいで自己中で、もっというと自己ベースなのでデータが主観的であることが多い。例えば「自分の周りではこれが最適だった、だから社会的にもこうであろう」という形で展開させてしまいがちなんですよ。

 

Teが森を見て木を見ずなら、Tiは木を見て森を見ずという感じ。どちらの理論が一般的に使いやすいかというと統計(マクロ)を意識した結果、再現性が高まるTe的思考でしょうね。優秀なTiの場合データの客観性が上がったり、メタ認知範囲が広くなり始めて、もう少し再現性が高まったり、社会的に使いやすいものに仕上げてくれることも多くなるでしょうけど。

 

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こっから冒頭の話にリンクしてくるんですけど、自分ベースの考え方をしているTiは、要は自分>社会なわけで、ほぼほぼ例外なく自分の思考が最も価値あるものだとしているんですよ。表面上にでてなくても誰かに意見を言われたら「ふーん、そうなんだ。まあお前の中ではそうなんだろうね」ぐらいに片付けてることのほうが多いです。

 

何が言いたいかっていうとそういう性質をしているもんですから、言ってしまうと自分より立場的に上の人間を欲していない存在でもあるわけですね。これは立場の上な人間を嫌っているというより、周りに置きたくないという話に近いです。なぜなら上の立場の人間はTiの思考を否定することのほうが多い(主観的で客観性がないので認められにくい)というのと、ここまで書いてきたとおり自分の価値(思考)を高く見積もっているからですね。

 

そういないでしょうけどTiの思考を認めてくれる人間であれば、周りにいてもそこまで不快には感じないかもしれません。

 

で、冒頭の先生と呼ばれたい人生だったって、立場の優位性を失いたくないTi的な考え方だなって思ってダラダラ書いた次第です。

 

終わり。

 

※この記事は主観を使いまくったため客観性の欠片もないことを理解していただきたい所存です

 

※2 長々書いたけど同じTiでもエニアやエゴグラム、「ファセット」とかの違いでまた変わってくると思う。典型的Tiとして考えた場合で考察しました。