INTP型のブログ

苦味があるな?

批判ってのは難しい話だよなぁ

全身全霊で小説を書いて、それを誰か。もしくは不特定多数に読んでもらったとき「つまらん」だとか「手を抜いている」だとか。批判を受け取ったときって納得して次の糧にしようと思うのと同時に『ああ、自分ってどうしようもない人間なんだな』みたいにも思ってしまうところがあるんですよ。

 

なにせ自分が持てる全てを出したわけで、それが否定されるっていうのはどうしようもなくしんどい。アイデンティティの喪失みたいなのを味わうわけですから。

 

こういう批判っていうのは目の数が増えるほど、どうあがいても避けようのないものになってきます。割合で1%以下に否定的な人を抑えるほどのクオリティを生み出したとしても、母数が10000人いれば、100人が批判してきますからね。

 

100人っていえば一クラス30人だと仮定しても3クラス分、クラスの4,5人に無視されたり、教科書隠されたり、聞こえるような声で悪口言われたり。それだけでも相当つらいっていうのに、3クラスから攻撃される感覚っていうのは、どれだけ味方がいても耐えられない人にはまず耐えられるものじゃないわけですよ。

 

耐えられるか、耐えられないかっていうのは結構大きなポイントで、意識のコントロールが上手い人なんかはどれだけ批判されても味方してくれる人の方だけを見て幸せそうに活動を続けられますし、逆に苦手って人は味方がどれだけいても少数派の批判に耐えきれなくなってしまう。

 

---

 

実のところ創造性など、クリエイティブな才能なんて呼ばれる部類の能力は神経質かどうかと相関性があると言われています。

 

要は世の中に面白い作品を打ち出す人ほど、実のところ批判には弱い傾向があるのではと言えるわけです。

 

クリエイティブな世界で多くの人に見てもらえるようになった人は、横の繋がりによって批判なんてせずとも勝手に向上していくと思うわけで、それも踏まえると不幸な事件を少しでも減らすために批判なんてやめちまえよとも思うわけです。

 

しかし批判は社会悪的な存在の浄化作用も持つ面もあり、なくなったらなくなったで無法者はびこる世界にもなりかねません。

 

つまるところ批判とは人体でいうところの白血球みたいなものなわけです。残念なことに誤作動して正常どころか有益な要素も破壊してしまうこともありますが。

 

---

 

何が言いたいかと言えばタイトル通り批判というものは難しいなと思ったって話です。

 

個人自由に任せれば価値観は多様ですから、同じものを見ても感じ方は違い、となれば批判は必ず起きてくる。

 

しかし逆に批判の発生しない仕組みを作ってしまっては浄化作用がなくなり、腐敗化しやすい世の中になってしまう。

 

折衷案で言えば一番良さそうなのは昔ながらのマネージャーやら編集者やらがファンの声を精査して、攻撃的な批判の声をシャットアウト。使えそうな意見だけをピックアップして、精神的にまいらせないよう伝えるみたいなのが良かったんでしょうね。

 

現実としてはSNSの発達により誰もが直接特定の誰かに批判をぶつけられるようになり、そうすると真面目でみんなの意見をちゃんと聞こうとしてしまう人ほど潰れてしまう。ネット炎上が世の中に及ぼす影響も年々大きくなってきている。

 

ここまで考えが進んでくると、2つの思想がうまれてきて

 

  1. 啓蒙活動を進めて思想をアップデートし傷つかない人を増やす
  2. 一人ひとりが問題意識を持つは理想的だが理想論に終わる

 

みたいな。

 

僕は2の立ち位置で、そもそも一つの行動は表裏一体で良し悪しを持つと思っているので、どちらか特定の思想で定着させようと思っても納得行かない人がかならず出てくる、となれば反発でよりその人達の活動意欲は高まってしまう。

 

今回の例で言えば批判をなくそうと言えば、それだけ批判を必要だと思う人はSNSで直接批判をぶつけると思うわけです。

 

だからこそ民主制っていう多数決っぽい何かを生み出して、無理やり納得させる仕組みを作ったわけですが。

 

話逸れましたが『批判で失われる才能あれば、批判で救われる人間もいる』わけで。なんと世の中は難しいのだろうと、虚無感に見舞われて愚痴っぽい何かを書いた次第でした。