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苦味があるな?

信じるってなんぞや?

ORICON NEWS:芦田愛菜、“信じること”を熱弁 達観ぶりに永瀬正敏ら感嘆「これ以上の答えはない」 - 毎日新聞

 

“信じる”について芦田は「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました」

 

例えばだが友人Aが逃げるわけ無いと信じて連帯保証人にサインをする。それで逃げられたら裏切られたと思うのは間違いない、なんなら多額の借金が自分に降り掛かってきて恨みもするだろう。

 

『借金に追い詰められた時友人Aが逃げる』というのは信じた人間にとって想定していなかったことで、それは「その人の見えなかった部分が見えただけ」に該当する。

 

芦田愛菜氏はこの逃げられたという行為に直面した時「受け止めることができるよね?」と自問自答し、そうであることが信じるという背景には必要と述べているのだと思う。

 

ここで疑問になってくるのは”受け止める”という言葉である。これは「裏切られて怒りの感情に支配されるかもしれないけど、それを理性でコントロールする」のような感情のコントロールという意味にも取れるし、「裏切られて不利益を押し付けられたなら、その報復をしたいと思うかもしれないけど、そうならないよう自制する」ともとれる。

 

なんなら別に「復讐心にかられてその気持に流されるがまま行動する」というのも受け止めると表現しても不思議ではない。受け止めるというのは結局の所「こんな感情がうまれた、こんなことをしたい衝動にかられた」という精神を自覚するというところまででしかなく、その後どのような行動をするかは受け止めるに入っているようには思えない。

 

例えばキャッチボールをしていて、投げられたボールを受け止めるのはグローブに収めるまでを指しているだろう。その後相手に投げ返すのか、その場に置くのか、ずたずたに引き裂くのか。ボールを受け止めた後の行動まで指定しているようには見えない。

 

ただし受け止めた後の行動はコントロールできているというのが重要だ。ボールを投げ返すのも、その場に置くのも。ボールを受け止めた人間にしかできない、もし取りそこねたのならそれは自分のコントロール外になるのだから。

 

途中「受け止めるには、その後どのような行動をするかまでは含まれていない」と書いたが、それはあくまで「倫理的か合理的か、どのような行為を選ぶかまでは受け止めるに含まれない」と言う意味で「選べる状態にあることは受け止めるに含まれる」と書いておく。

 

つまり芦田愛菜氏の言葉を自分向けにわかりやすく翻訳すると「信じてた人の自分に見えてない部分が現れて、それが結果的に裏切りという形になった。裏切られた自分は色んな感情や衝動に駆られると思う、でもそれは受け止めるべきだ。この受け止めるという行動が確実にできる、それが背景にあってこそ信じるという表現をしても良い」になる。

 

芦田愛菜氏の主張は2つある。

 

一つは「信じてたのに裏切られた。でもそれってあなたが相手のことをよく知ろうとしなかったからじゃない?

 

もう一つは「信じるという行動は、もし裏切られたときに自分の感情や衝動を受け止められる人じゃないとそもそもできないものだよ

 

と思った。

 

(本筋は信じるという言葉で、自分の理想や夢を他人や自分に押し付け、それにすがろうとしてるんじゃないか、だから信じるという言葉をみんな使うんじゃないかと言ってるみたいですね。信じると口に出すのは不安の裏返しみたいな感じ? 裏切られるかもしれないとか、失敗するかもしれないという気持ちを信じるという言葉で塗りつぶす的な。「この銘柄は絶対上がりますよ!」みたいに言われてそれを信じて全力投下したけど下がり始めたときに使われる「本当にこれから上がるんですよね?信じますよ!?」的なのがモデルケースになりそうやね)

 

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個人的には信じるというのは「裏切られても別にいいか」と思わない限り口にしないようにしようと思っているので、なんとなくわかる気がする。(もちろんそう思ったとしても裏切られたくはないが)

 

裏切られても別にいいというのは、裏切られた後どんな障害が自分に訪れようともそれは仕方のないことだと思えるだろうということで、芦田愛菜氏が言ってることと大差ないのではないだろうか、多分。

 

まあ僕はそう言ってるように見えたというだけで、本当に芦田愛菜氏がそう言いたかったのかは不明ですが。

 

タイトルの「信じるってなんぞや?」の回答に当たるのは「裏切られても別にいいかと思えるか」じゃないかな~と思います。ジョハリの窓なんて言葉もありますが、完全に人間の意識を理解することなんてまず不可能だろうと、自分にせよ他人にせよ思いますので。