巷で想定されている優しい人っていうのは、なんていうかヘコヘコ頭下げたり、誰にでも敬語を使うみたいな気を使う人のことではないんだよな。
ここで言われる優しいっていうのは他人のために自分のリソースを削れるか否かだと思うんだよ。
言動が謙虚というか、優男に分類されるものではなく、体育会系の先輩が「飯おごるぜ、食ってけよ!」みたいな、金や時間や体力を削ってでも相手に与えることが優しい人に内包されるもので、謙虚な人間のことじゃないんだよな。
こういった与える優しさの難しい所はおせっかいと紙一重のところなんだよ。
例えばだけど、ニートに仕事紹介しようかという人や、恋人のいないアラサーに相手探してやろうかみたいに言う人は、言い方やタイミング、受け取り方次第でおせっかいにも優しい人にもなり得てしまう。
優しいやつっていうのは言動がどうとか風体がどうとか、そういう部分で判断するのは違う。身を削ってるかどうかなんだよ。
インターネットでSNSとにらめっこしながら御意見番してるやつより、献血行ったりボランティア行ったり、そういうやつのほうが実際近くの存在として観測した時、おそらくだけど優しいって感じるんだよな。
もちろん人間だから、方向性を失敗してありがた迷惑をかますこともあり得るだろうけど、それは優しいと馬鹿が組み合わさったからであって、その本質的問題は他者への干渉意欲ではなく頭が悪いこと。優しい事自体は良い特性だと思うんだよ。
ネットの意見を見ていると、優しい人を求めると同時におせっかい焼きを忌み嫌ってるように見えるんだけど、それは他人にパーフェクトな干渉を求めてる、自分の考えを察してもらってベストなリソース提供をしてほしいと言ってるように見えてしまう。
優しい人っていうのは何度断られようがしつこく「○○食べるか?」というおばあちゃんのような、おせっかいも焼くような人物であることが大概なんだよ。そりゃあベストな提供だけをし続けられる、プロ執事みたいな人間もいるかも知れないけど、そんなん全人口の数%とかで数百人と会えばちらほらいるかもねぐらいの話だろう。
おせっかい焼きと優しい人はほとんど同義なんだよ。
だけどおせっかい焼きはうざいから、なんとなく優しい雰囲気っぽい謙虚な人間に近づいて、なんていうか思ってたんと違うってなるんだよな。謙虚な人間はむしろ他人との関わり合いを極力避けたいがゆえに、低カロリーな対話に徹底するみたいな人が多いから、むしろ想定されてる優しい人とは対極の存在なのにな。
なんていうか優しいけど鬱陶しいおせっかいは焼かないって人は、オタクに優しいギャルとか、街一番の美女だけど異性経験全く無いとか、大金持ちなのに愛人いないし浮気欲もないとか、ナンパな男でイケメンだけど付き合ってからは他のやつに目移りしないとか。
別に居ないわけじゃないけど、特定の属性とは相性の悪い属性がくっつくっていうレアケースなんだよな。
まあいないなら作ってしまえばいいっていうのが伝統教育の流れだったりするわけだけど、それも崩壊した現代においてはまじで希少ケースになってると思うわ。
しかもそれだけじゃなく、良い属性とセットで存在する悪い属性を徹底的に叩くもんだから、悪い属性も少なくなるけど同時に良い属性も無くなっていくわけよ。
さとり世代みたいな言葉が生まれてたりしたけど、あれも結局の所悪い属性を叩いた結果良い属性も無くなっていき、最終的に虚無みたいな悪いところもなければ良いところもない、毒にも薬にもならないみたいな人間が生まれた結果なんじゃないかな。
世の中いいとこ取りをするのは不可能ではないけれど、おせっかいを焼かないけど優しさは持ち合わせてるみたいな凄いことができるタイプが数少ないのは間違いない話で、大抵少なくて有能なやつは一般人からは観測できないようなコミュニティにいるもんなんよ。
何が言いたいかといえば、世の中いいとこ取りは難しいってことですわな。