この精神は考えることが好きだからこそ、大切だと思っているからこそ手放してはいけないものだと思ってるんですよね。
言葉通り品質の是非は何にせよ、誰しもが最適だと思う何かを考えることはできるんですよ。
人生を楽しく生きたいと考えた時、健康を重視する人もいれば、逆に健康を損なってでも美味しいものを食べたいとする人もいる。
もう少しわかりやすい話で言えば年収1000万に到達すると言う目標があったとき、1日20時間アルバイトをして稼ごうとする人もいれば、ネットビジネスや資産運用に手を出す人もいるわけです。
結論の正しさはさておき、まさに『考えるだけなら誰でもできる』という話であります。
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ここで問題になってくるのは考えた結果というのは当人にとって現時点での最善解だということ。
幼い頃考えていたことが、大人になってみるとなんて現実味のないことだったのだろうかと反省する人が多いように、思考結果というのは経験値や知識によって変化しがちです。
しかし幼稚園児が考えた末に出した選択も、人生経験を大量に積んだ大人が考えた末に出した結論も、当人にとって高い正しさを持っていたことは確かで等しいわけです。
何が言いたいかといえば『考えるだけなら誰でもできる』という言葉には、人よりも多くの時間・データを使って考えようが他人からすればそれは可視化されるものではないため、自分の思考結果と同じ価値しかないと評価されがちという話であります。
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考えが誰かの心を動かすために必要なものは背景情報です。
例えば権威性、道端のおじさんが急に「Youtube稼げるからやるといいよ!」と言ってきても何いってんだこいつで終わりですよ。
しかし仮に実際に運用しているチャンネル、それで取れたアナリティクス情報を見せてもらえたら多少は信じる気にもなるでしょう。
スプラトゥーンで「こうすれば勝てるよ!」と見知らぬ子供が言っていても微笑ましい気持ちになるだけで信じられませんが、そのとおりの立ち回りをしてプロ級の腕前を見せてきたらなるほどという気持ちにもなります。
我々が自分以外の誰かの考えを肯定するのは
- 統計的立ち位置のデータ
- 実際にそのとおりにやってみた結果
- 強い権威性
があったときで、逆に言えばそれらがなにもないのであればたとえアインシュタイン級の考えを披露したところで、なんでもないただの戯言でしかありません。(多くの人にとっては)
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軽く例を書いておくと「文末にこういう言葉をつけると訴求力が上がります」なんて話をするのであれば
- A/Bテストをした結果を示す(統計的データ)
- 実際にやってみたらCVRが向上した(目に見えてわかる経験値)
- 大手広告会社も利用している(権威性)
などをくっつければいいわけです。
『考えるだけなら誰でもできる』ってことを念頭に置いておかないと、自分の(おそらく)類まれな思考能力から導き出した出力結果が評価されないことに不満を感じてしまうんですよね。本当は信じるに値する何かを作れていない自分がまだまだ未熟なのだと自省すべき場面のはずなのに。