まず最近流行ってるギフテッドの話の根本は多分、文科省がギフテッドの子供への支援をって話が出たからだと思ってます
文科省は今回の支援策を英才教育とは位置づけておらず「過度な競争をまねく恐れ」があるとし、IQ(知能指数)などの基準に基づく才能の定義づけも行わない。
上記のような文がありますから、TwitterでIQが云々言っているのはどうも的はずれなような気がしてなりません。(才能の定義付けをしないと言ってるだけで、IQを判断材料にする可能性はあるのかもしれないけど)
サヴァン症候群の人々が時折示す、わかりやすく凄い能力なんかが対象になりそうな気もします。
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だいぶ前に知能について真面目にまとめた事あるんですけど、一般的に言われるIQは流動的知能を測った数値なんですよね。
流動的知能(流動性知能)というのはざっくり言えば、新しいものを覚えることだったり、経験影響の少ない分野への対応力みたいなとこだったりします。
だから世間一般的なIQは知的好奇心と高い相関性があったり、MENSAが実質ボードゲームクラブみたいになってたりします(ボドゲは未経験のものが共有して遊ばれがち、高IQの能力が活かされやすく心地よいのだと思う)
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ただ実際のところ流動的知能はアナロジー思考を磨くと代替可能だったりします。
アナロジーとは類推のことで、Aではこうだったから似た性質を持つBも同じようなことを言えるのではないかと考える力のことです。
ドゥンカーの放射線問題とかまさにそれを計測できるものですね。
流動的知能は経験のない分野への対応速度を表すといえますが、類推で別分野の経験を流用することができれば擬似的に経験のない分野への対応速度をあげられます。
主観で言えば流動的知能はそういった類推能力のことも含んでいるのではとか思ったりもしますが…
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仮にギフテッドをIQで計測して育てようとするのは良くはないかなと思っています。
IQがいくら高くても忍耐のない人間に知識を蓄積させることは難しいですし、知識のない人間には大抵何も出来ません。知能労働は特に
アイザック・ニュートンの巨人の肩の上という話もありますが、人類の積み重ねられた歴史の中で何かをするのであれば、積み重なったそれを学ぶことが何よりも重要なのは事実に思います。
プログラマーを志したとして、githubに転がるコードをひたすら眺めてどういうことをしたいのかゼロ知識から理解していく。なんてことをするより普通に本やら動画やらで基本から学んだほうが間違いなく早いです。
そしてそのためには勉強が嫌いであろうと理性で耐えて学べる人間じゃなければいけません。
これは主観ですが、みんなが等しく経験の薄い時期である幼少期ほど高IQ者は高い成績を出しますし、それに対して親や周りは天才だともてはやしてしまいがちです。
その結果は高IQ者を天狗にしますし、努力嫌いにしがちです。
年月が経つにつれ、前提とする知識が増えるほどに成績が低迷し、「十で神童 十五で才子 二十過ぎれば只の人」を体現しちゃいがちなように思います。
高IQ者の未経験分野への対応速度は確かに凄いように思います。ですが現実は事前準備がものをいうところがあって、どれだけ忍耐強くストレスのたまるようなことをできるかが重要になっていたりします。
高IQ者でなおかつ社会の求めることと自分の好きなことが合致した人間はどこまでも走り抜けてしまいますが、そうでなければ二十歳すぎた頃には大抵ただの人です。
そういう意味でギフテッド教育がそんなにうまくいくようなものには思えないなーとか。どちらかというと高IQ者の好きなことと社会的に意義のあることでマッチするものがないか探すマッチング作業とかしてたほうが有意義なんじゃないですかね。しらんけど
あとはIQが高くて、更に忍耐強い子供を探すとか。
忍耐強さはニアイコールで計画的行動力だと思っているので、この両方を兼ね備えているというのはある種の奇跡のような気もしますが。
※IQの高さが知的好奇心の高さと相関があると考えたとき、好奇心を満たすことを優先するなら無計画でいたほうが確率が上がるように思えるため。計画的に無鉄砲なことをするみたいな矛盾を抱えることは難しいように思う
そんな感じでした。
どちらかというと想定しているのはプログラミング大好きでそればっかやってて学校でいじめられてるハッカーとか、こうコミュニケーションに苦手意識を持っているけどめちゃくちゃ社会的に有意義な能力を持っている子供。みたいなのをギフテッド教育の対象にしたいのかなーとか思いました
そんな協調性のない子どもたちを集めた空間こそ凄まじそうな気もしなくもないですけど