- 叱られないのは期待されてない証
- 叱ってあげるのは愛
みたいなのもあれば
- 叱るのは自己満足、自分の感情がコントロールできてないだけ
- 叱られる側のメリットはない
みたいな考え方もあるのが叱るということ。
体育会系で意見を出しても怒られ、意見を出さなくても怒られ、ひたすらに忖度を求められまくった人生からすると、「仮に叱る側が愛を持ってたとしても叱られる側からすると溜まったもんじゃねーわ」という思いもあるし、しかし「怒られたからこそ忖度するスキルが身についたとも言えるのかもなぁ」という思いもあったりします。
この怒りの感情を交えることに対して、面白い研究があったので紹介します。
ざっくり解説すると
怒りの感情及び、ネガティブな感情を交えて交渉やゲームのプレイに挑んだ時、そのネガティブな感情を出すことにメリットがあると信じたならメリットが表れるし、そうでなければ表れない。
というもの。要は「怒ることは大切だ!」と思って怒るなら期待通りにメリットが出るし、「怒るのは駄目だよなぁ……」と思って怒るのはメリットは出てこないというものでした。
これを踏まえると「教育のために怒っています」という人に怒られるのであれば、叱られる側は狙い通りの教育の成果を受けるのかもしれません。逆に「感情の赴くまま、ただ怒りたいから怒ってる」みたいな人からのお叱りはただただ不快を生むだけなのやも。
基本的に叱られるというのは負の報酬なので、例えばネズミが電流の走る床を踏むと苦痛を得ることを学習したならそこを避けるように、なにか悪いことをした時毎回叱られたなら徐々に避けていくというのが人間ないし学習する生き物の習性と言えます。
この負の報酬は多くなれば多くなるほどストレスを生みますし、ダブルバインドとも呼ばれる、二択しかない状況下でどちらを選んでも負の報酬(つまり叱られ)が発生するのであれば、より大きなストレスが出てきます。
過剰なストレスに晒されると理性的な選択ができなくなり、負の感情の赴くまま何かを攻撃したり、暴れまわったり、その他色々。社会的に褒められたものではない行動に結びついていくものです。
負の報酬を全く使わずに何か行動を修正するというのは、よっぽど聞き分けのいい人間でなければ難しく、例えば何度も遅刻する人間も怒鳴りつけずに直させるというのは、直す側のインセンティブがないので難しかったりします。(罰金制度も逆に言えば罰金を払えば合理的に遅刻できてしまうため、チーム全体にマイナス影響が出てしまう)
我々人間が大きな刺激として捉えるものの一つは人間であり、だからこそ雑誌や動画のサムネイルには人の顔がとりあえずで載せてあったりするわけですし、コミュニティビジネスほど儲かるものがなかったりもするわけですし。怒鳴るというのは負の報酬として極めて強力なため、行動修正の観点でいうと私的には十分使う価値があるように思えます。
よく、低学歴の学校ほど規則が厳しく、高学歴の学校ほど規則がゆるいなんて話があったりしますが、怒らなくても大丈夫な人間は自制的で、ほっといても自己学習をしながらやってはいけないことを遠ざけ、やったほうがいいことに向き合って高学歴に。その逆は……。
叱るっていうのはある種、格差社会を是正してくれる存在だと思うのですが、現代では叱ることは難しいわけで、そうなると教育を施す側は工夫をこらして負の報酬を用意しますが、叱ることの手軽さと比べると随分と大変になっていってるような気はします。
まあただ、理不尽に、ただストレスの解消先として自分より下の人間を利用するやつもいたりするので、そこが難しいところではありますね。