Q.弱者は生きる術無いよな~、弱肉強食やん
A.無限パターンの生き方があるので、別に弱者でも生きていける
みたいな話だと思うんだけど、それはそれとして「クソみてぇな人生だなぁ」って悩みは別に存在するよねとは思う。
適者生存はホームレスの救いにはならんでしょ。明日食うに困ってるし、雨風ひどい日は辛く苦しいはずでしょ。「でも生きられてるじゃん、適者生存!」って言われてもいやいやってならんですか。
適者生存の考え方は、遺伝子はそれぞれに見合った環境があって、それぞれがそこで生きていく。闘争ではなく、それぞれがそこまで衝突せずうまく協働していくって考え方ですけど、かたやタワマンの一室で幸せに暮らしている一家と、かたや家賃1万円築60年ぐらいの、壁を触ったらボロボロ崩れてくるようなボロ屋に住んでいる人間。
「遺伝子には優劣はなくて、それぞれが特定の環境に強い遺伝子を持っているだけだから、つまり適者生存の考え方によってそうなってるだけです」
とか言われても、クソゲーとしか思えなくないか、っていう。
適者生存はなんとなく「弱者も幸せに生きれるんやで」みたいな救いの物語っぽいけど、むしろ逆でしょ。社会的弱者にポジショニングしてしまう能力の持ち主は、適者生存の考え方を持って、誰もやりたくないクソポジションを押し付けられるっていう。
適者生存って言葉の嫌らしいところは、そういうふうにイス取りゲームしあってるはずなのに、「椅子に座れなかったのは優劣とかではないんやで」ニッコリ みたいに強者が弱者をぬるま湯に押し込んでいるような構図が嫌いなんだよ。搾取する気満々に見えて仕方ない。
まだ「この世は弱肉強食」って言ってる人のほうが、誠実な気さえしてくる。
適者生存であることはたしかにそうなんだろうけど、適者生存だからといって自分が適しているであろうポジションが人間社会的に幸せなポジションであるかどうかは全く別問題である。ってちゃんと書いて理想郷のような映り方をぶち壊してくれ。
まあ幸福は主観的に決められるといえば一理あるけど、でもブータンの例があるからな。修行でも積まないと客観的に自分が劣ると少しでも思ってしまったら幸福度は下がっちゃうわけで、人間社会的に幸せなポジションかどうかは結構重要なことな気がするわ。